🌸新薬師寺とは

新薬師寺は天平十九年(747)三月、聖武天皇の病気を祈って、光明皇后によって創建されました。聖武天皇は天平十五年(743)、動物植物ことごとく栄える世の中をめざし、皆で力を合わせて盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々と共に大仏造立に着手されました。ところが天平十七年(745)に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城京に戻られました。大仏造立は平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調を崩されました。

そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、清らかな場所で、薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来像七軀を造立し、薬師経七巻を写経する事が命じられました。これをきっかけに、光明皇后によって、春日山、高円山の麓に、新薬師寺(当時は香山薬師寺、香薬師寺とも呼ばれた)が造営されました。天平勝宝四年(752)四月、東大寺では大仏開眼供養会が営まれました。


金堂には薬師如来が七軀、祀られていた

新薬師寺の金堂は桁行九間という大きな仏殿でした。堂内には善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神如来、薬師瑠璃光如来の七仏薬師像、七軀の如来像それぞれに脇侍の菩薩像が二軀ずつ、そして十二神将像が祀られていて、浄土のようでした。金堂と堂内に祀られていた仏像は、平安時代の暴風で倒壊したため現存しませんが、金堂は現在の本堂の西方150mやや南寄り、現在の奈良教育大学内にあり、東西約60mの桁行の長い建物だったことが、最近の発掘調査で確認されました。その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の塔が存在したことが史料からわかります。創建当時は壮大な寺院だったことでしょう。



悔過とは

悔過とは、過ちを悔い改めるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは、悪いことが起きるのは貧(欲張り)、嗔(いかり)、痴(愚かさ)の三毒によって生じる罪業を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、服を招くことができると言う考えです。平城京の東の春日山のお堂でも聖武天皇の病気平
癒のため、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔過が勤修されたと考えられます。春日山中にあった香山堂(こうぜんどう)は、新薬師寺の全身寺院ではないかとも言われています。また新薬師寺にも、薬師悔過所が設けられました。


盛衰を経て今に残る、奈良時代の古寺



金堂は平安時代、応和二年(962)の暴風によって倒壊。境内の東、標高の高い場所のお堂が、いつの頃からか本堂になりました。堂内の薬師如来座像は奈良時代後期から平安時代初期の作です。周りの十二神将立像は奈良時代の作ですが、もとから新薬師寺にあったものではなく、高円山麓にあった岩淵寺(いわぶちでら)から移したものとも伝えられています。鎌倉時代に南門、地蔵堂、鐘楼(しょうろう)が建立されて、奈良時代の建物である本堂を中心に今の新薬師寺が整いました。江戸時代には祈祷所として参拝者でおおいに賑わったことでしょう。盛衰を経て今に残る天平(てんぴょう)の古刹(こさつ)は1250年の人々の祈りを静かに伝えています。現在でも、毎年一月八日と四月八日には薬師悔過が行われます。

🌸西ノ京 薬師寺との違い

新薬師寺の建立は西ノ京の薬師寺よりも新しいのですが、新(新しい)薬師寺という意味ではありません。

新は、あらたかな、霊験あらたかな薬師寺という意味合いがあります。